白状するなら

 私も無思慮で不用意なこと、残酷なことを「幾度か」と言うにはもっと多いよな、くらいの回数しでかしたのを記憶している。記憶してる数でしかないので、実際はもっともっと多いだろう。それを考えると慄然とする。思い出すだにその時それぞれの自分を殴り飛ばしたくなる。
 だからといって「お互い様」だとか「みなどこかでやってること」とは思わない。一つ一つがどうしようもなく重いのだ。ただ、私が昨日のエントリを書いたと知ったら、彼らは「おまえだってひどいことをしたくせに」と言うかもしれない。そうなったら私には言葉がない。私が彼らにしたことも、どうしようもなく重いのだ。私が傷つけた一人一人には、きっと許してもらえない。自分のしたことの意味に気がついた時の、あの目の前の暗さ。私が尊厳を傷つけたあの子は、あの人は今どうしてるだろう。私はもう会うことのないだろう彼らの怒りを想像して、私に向けていたかもしれない「死ねばいいのに」をこぼさないように抱えていくしかなく、でもってそれしか出来ずにいることに途方に暮れている。

 物を言うのは怖い。

 それでもやはり、色々と口を挟みたくなるんだけど。
 「あぁもう、ここで一言言わせろ!」と思った時にはてブってすごく便利なツールだと思う。自分から何か強く主張したい、ってんじゃなくて口を挟みたいって時に最適。

あーぁ

 はてなで自分語りするのは、自分の性格上際限なくなるからやめようと思ってたのになぁ。しかも感情丸出しで。
 もうこれで以後の私の発言には色がついてしまうなぁ。ただの感情的で文句タレなはてなサヨクブックマーカーでいたかったんだが。
 それでも言いたかったから書いたんだけどさ。それに御二方にありがとうと言いたかった。関係ないところで勝手に泣いてわめいて救われて、後ろめたくもあるけれど。

冗談が通じなくて悪かったな。

 「おまえには冗談が通じない」
 「そんなつもりで言ったんじゃないのに何を言ってるんだ」
 「何ムキになってんの?」


 子供の頃よく言われたもんだ。
 人を笑い者にしておいて、私が怒るとそう返ってくる。
 実際まぁ、ナイーブに過ぎるところがあるのは認めるよ。小心者で自意識過剰だし、そのくせ見栄っ張りのでしゃばりだし。まぁ自分は馬鹿な子供だったと思うさー、どこにでもいる根暗で理屈っぽくて幼稚な正義感を振りかざしては返り討ちに遭う、人付き合いのヘタな中学生レベルで。


 実際のところ、私は、生まれ育った土地ではどっちかっつーと社会的な地位が低めとされる属性の家に生まれて、父も母もそれを覆すために本を手にした人だ。母方の祖母は外から嫁いできた人で、外からはその属性と結婚したこと、内からはその属性を持たぬことで圧力を感じていたという。
 けど、子供の頃にその生まれを面と向かって笑われたことはあまりないし、感覚の断絶は感じてもどこか諦念があって小さく溜め息をつけば済むことだった。私に知識を授けてくれた父と母のおかげだ(鈍い子供だったってのもある)。まぁ、その後勉学を怠ったので今は物を言おうとする度にツケを支払わねばならなくなっているけれど(それは付け焼刃の知識で物を言ってもいいのかという恐怖も含む)
 私の家と同じ属性を持つ子は他にもいたし、学校でそれを揶揄されることはなかった。


 上に書いたような台詞は、そういう属性は別として、少し変わった私の名前であるとか(父が随分思い入れて矢鱈にスケールのでかい名前をつけてくれたんである/父には申し訳ないが私はこの名前を好きになれずにいる)、どうしようもないクセ毛であるとか、給食を食べるのがとろいとか、足が遅いとか、やたら理屈っぽいとか、アイドルの話もせずリボンやヘアゴムにも凝らないで女の子らしくないとか、まぁそういうことへの揶揄に、自意識過剰な小学生が怒り出すと跳ね返ってきたものだ。
 下級生をからかってる男の子を止めに入っても、「先におまえのその髪の毛何とかしろよ」だの「オトコ女がなんか言ってるぞ」だの言い出して、私が怒ったり泣いたりしたら上記の言葉が返って来たもんだ。先生に呼ばれて事情を聞かれても「そんなつもりはなかったんです」「冗談で言いました」だった。
 冗談じゃない。あんたらは冗談だったかもしれんがこちとら冗談じゃ済みゃしないんだよ。
 でも結局「冗談」で片付けられた。注意はされてもそれだけで、髪の毛に言及するのがダメなら次は名前、それがダメなら次は鈍臭さ、手を変え品を変え冗談はやってきた。私はずっと冗談の通じない子供だったし、今だって似たようなもんだ。


 私が二十歳を過ぎた頃、地元でとある事件があって、私の家を含む属性への疎外感、嫌悪感のようなものが湧き上がったことがある。祖母はさすがに80も超えて気弱になってしまったのか随分とくよくよし始めた。交わされる噂や評判に弱音を吐くようになり、家族はそれを疎ましいと思い始めた。
 ある日ついに母がそれに苛立って「私達は何も悪いことなんてしてないんだからくよくよすることないじゃないの!」と強く言った瞬間、祖母の中に溜まっていたものが一気にあふれ出した。私が生まれる前に死んでしまった母方の祖父のこと、自分の姪っ子の旦那が私達家族へ向けてる視線のこと、祖父の家からの「よそもの」への拒絶のこと、自分は実家の墓に入る気でいること、それについて実家の親戚の一部がいい顔をしないということ……生きるのにがむしゃらで、本を手に取る余裕のない人だった。まるで論理的ではなくてほとんど繰言だったけれどとめどなく溢れてくる祖母の言葉に、居合わせた私は立ち尽くしたままどうすることもできなかった。
 「おまえにも苦労をかけてばっかりで…私が産んだばっかりに」
 祖母がそう言った瞬間、母は突っ伏し、声を上げて泣いた。
 ちくしょう、と思う。
 噂をしてる人達は、私や両親、祖母の前に立った時「あなた達のことを言ってるんじゃないよ」「そんなつもりで言ったんじゃないよ」と言うだろう。きっといい人達だろう。そしてそれでも私が納得しなければ「何もそんなに怒らなくても」とか「噂ごときで」とか言うんじゃないのか。挙句に「これだから…」と私の家を含むその属性をあげつらうんじゃないのか。
 「そんなつもりじゃなかった」と無邪気に言い放ちながら、祖母や母に、私にこんな思いをさせる奴らは死ねばいいと思う。祖母にこんなことを言わせた奴らは、どこかの誰かに、こんな思いをさせてる奴らはみんな死ねばいいのに。死ねばいいのに。

 「そんなつもりじゃない発言」に、「ただの冗談」にこれだけの憎悪を向ける私はおかしいのか。冗談がわからない野暮で不粋な馬鹿なのか。「死ねばいいのに」を並び立てるこれはヘイトスピーチか。

 id:Tezさんやid:buyobuyoさんのエントリに号泣した私は、救われた私は一体何だ。

 でもねえ、この空気はいやなものだよ。
 2007-10-28 - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!

 この一言に本当に救われた私は、無邪気で冗談の通じるあなたたちには一体どう見えてるんだ。

 御二方のエントリは本当に、本当に嬉しかったんだ。どんなに言っても言い足りないけど、本当にありがとうございます。

路上猫 西荻窪編

 今まで撮るだけ撮って放っておいた写真を、この際だからはてなフォトライフにまとめてみるか、とアップロードしてみた。
 ちょうど春頃、東京の猫を撮って歩いたのもあって猫の写真ばっかりだった。ブクマコメントの補足用に使おうと思ってたダイアリーも放っておくのは勿体無いので、折角だし並べてみる。
 もう五年近く前に買ったデジカメだし今や携帯電話にも画素数で負けかけてる上に撮る方の腕前は技術もヘッタクレもないのだけど。

 これは先月でかけた西荻窪編。

 どうでもいいが、猫に嫌われるクチである。猫といったら大体私の顔を見るや逃げ出すのが大半だ。私が撮影できた猫の三倍近く、即座に逃げ出した猫がいる。その代わりと言ってはなんだが犬は大概寄ってくる。猫も大好きだが犬も大好きなのでそっちはそっちで嬉しい。

 なのだが、この子は違った。

 
 人の顔を見るなりすたすたと寄ってきて足に身体を擦り付けてくれたのでそれだけで感激。で、そのままごろり。


 
 んがー。


 
 肉球さわる?


 
 ほれほれうりうり。


 
 さわんないの?


 
 あっそー。


 
 じゃぁねー。
 猫にかまってもらえる喜びを堪能いたしました。ありがとうありがとう西荻窪の見知らぬ猫。


 
 見上げたら貫禄のある御方がいらっしゃった。


 
 「日本の夜明けは近いぜよ」


 
 「なんつってな」


 
 「わしゃもう寝る」


 
 「何見てるんですかアナタ」


 
 「じろじろこっち見て、失礼じゃないですか」といわんばかりの目。
 いやその、似たような柄の猫ばかりいるなぁ、と。一族なんだろうか。


 
 「まったくよねぇ」な有閑マダム風。

 杉並区は猫も色々あるようなので、皆さんうまく折り合えていければ良いのですが。

 杉並発 猫の登録制義務化を考える!

 暇が出来たら残りの猫とか犬とかカメとかもまとめよう。
 

鈍い人の憂鬱(追記あり)。

 (誤字やリンク、読みづらかったところをいくつか訂正しました)

 Say::So? - これを書いた人を責めるわけではないけれども

 なんだろう、私は例の詩をDPZのコラムで最初に読んだ時、「とてもいい」と思った。

 # 2007年09月13日 trafficker DPZ, 教育, 文化 イタリアの教科書の踊るボクサーがキュート。スペインの教科書の絵が好み。/「子ども」の詩がとてもいい。
はてなブックマーク - @nifty:デイリーポータルZ: 世界15カ国。教科書の挿絵を比較する

 ライターで遊んでた高校生を酔った警官が平手打ちした事件があった時に、高校生に注がれた目線が大変残酷なものだと感じてたし、「バカは叩かなきゃわからない」的な言動がものすごくイヤでしかたなかったから、例の詩を目にした時「そうだそうだ!」と強く頷いたし、実のところid:b_say_soさんのエントリを読んでぐらぐら揺さぶられた今でも、この言葉自体にはやっぱり惹かれるものがある。子供の頃の自分がよく「笑い者にされて」、現在の自分が「物を言うことを恐れてる」からかもしれない。このダイアリーだって実はすげービクビクしながら書いてる。ブクマコメントだってモノによってはかなり緊張して書いてたりする。勿論、「笑いものにされた」子供が全員「物を言わずにいることを覚える」わけはない。それは当たり前のことで、私の経験はあくまでも私の経験に過ぎないし、私の小心や見栄っ張りは「笑い者にされた」ことだけに由来するわけじゃない。私はそれでもなんとか大人の範疇に足を踏み入れることができたから、それを知っている。
 けどb_say_soさんの指摘の通り、傷ついた子供本人にはとてもしんどい言葉だと思う。過去は消すことができないし、環境だって子供は選べない。だから、自分が傷つけられ捻じ曲がった子供だと言われたら悲しくなるのは当然だ。その子にとって存在するのは過去と今だけだし、未来は誰にもわからない。現在から未来が急激に変わることはあまり想像できないだろう。だから、例の詩は傷つけられた子供の過去と照らし合わせて用いられたらどこまでも残酷な言葉になる。おめでたいことに私はそこをすっかり見落としていた。だからb_say_soさんのエントリにはガツンと見事な一撃をもらってとても感謝しているし、指摘されるまで思い至れなかった自分に憂鬱な気分になる。

 もともとは子供に愛情を与えましょうというつもりだったと言うことは知っている。これから親になる人に向けての言葉だと言うことは知っている。

 …とb_say_soさんはおっしゃっていて、以下はもう私が「もともと」の意味をこねくり回してるに過ぎず、b_say_soさんが言いたかったことへの反応としては大変ズレたものでこの詩への単なる感慨以外の何物でもないのだけれど、私は例の詩を読んだ時、大人が子供と接する際に自らに言い聞かせる言葉だと思った。親が自分の子供に接する時だけじゃなく、一人の大人(自分)が一人の子供に接する時のための自省の言葉だと思ったのだ。自分に子供はいないせいか、子育ての言葉だなんて全然思わなかった。学校の教科書に載っていたということで、教師が子供に接する時の心構えなんだと解釈してた。
 というか、b_say_soさんの指摘に全面的に頷いておきながらこの詩を嫌えないのは、おそらく自分の中でうまく回るような解釈で形を整えてしまったからだ。

 (今、私に)批判ばかりされた(この)子供は、(傷ついて)非難することを覚える(かもしれない)
 (今、私に)殴られた(この)子供は、(傷ついて)力にたよることを覚える(かもしれない)

 ……というように。これは他の誰かさんではなく、今現在一人の子供と向き合っている自分(当事者)にささやかれている言葉なんだと私はとらえた(白状すると私としては「〜を覚える」より「(傷ついて)」が重要で、そう考えると私はこの詩の意味を手前勝手に捻じ曲げているだけなのだろうとも思う)。そうやって接する「現在」を積み重ねて、接した子供の未来の幸せにほんの少しでも貢献するための言葉として考えた。
 だから、「育ち」という過去に原因を求める言葉としてこの詩をもっともらしく嘯く人がいたら、私自身自分勝手な解釈をしているにもかかわらず私はその人を強く軽蔑する。傷つけられた過去はどうやったって変えられないし環境で人の全てを決定付けるのは間違いだからだ。
 同時に「でも」とも思う。私が自分の中でこの詩を変えたようにその人がこの詩を好きに使うことを、咎められるのか、と自らに問うと咎めることはできない。咎めることができるのは、環境に全ての原因を求める姿勢であって、この言葉の用い方じゃないんじゃないか、って思う。自らの姿勢をこの言葉で裏打ちしてるのは自分も一緒じゃないかって。そういう「都合の良い使い方ができてしまう言葉」で、自分も都合よく使ってるってことは覚えておこうと思う。

 これからどこかで出会うかもしれない一人一人の子供といざやり取りする折、「今」「私が」主体として心の中で使うために、b_say_soさんの指摘と共に抱えておこうと思う。そう考えながら私は明確な態度を決めかねてぐるぐると回っている。


・追記

2007年09月17日 mimipann atd 一読。「だから、自分が傷つけられ捻じ曲がった子供だと言われたら悲しくなるのは当然だ」が理解できない。

 うーん……「〜された子供は」「〜を覚える」という文章の中で「〜された子供」というのを、「環境」や「育ち」という過去形現在完了形でとらえた場合、「〜を覚える」と自分の事を言い切られたら悲しいよなぁ、と思ったのです。過去や今ある環境というのは子供本人が逃れようとするにはあまりにハードルが高すぎる。殴られた事実は消えないし、笑い者にされた記憶も残るだろうし。その記憶を抱えている人間の前で、この言葉を「おまえはそういう経験があるのだからこうなのだろう」と意識的にせよ単なる無神経にせよ用いられたら傷つくよなぁそりゃ、と思うし、そうでなくても「自分ってこうなんだ」という気持ちに繋がってしまったらそれは悲しい。
 言われたことが真ではなくても言葉で傷つくことはあるし、子供ならば尚更信じ込んでショックを受けることはあり得ると思うのです。きちんと考えて突っぱねられる子ならばそれはとても強くて頼もしいと思いますけど。

 ただ、id:mimipannさんが

2007年09月16日 mimipann education 引用文には、「逃れられない」とか、子供の頃の環境で得た性質が永続するとの記述はない。悪意を読み込む読解が、にも関わらず成立するのはなぜ。↑こうも安易に他人の人間性を疑える神経も凄い。怒りが理解できない
はてなブックマーク - Say::So? - これを書いた人を責めるわけではないけれども

 と、b_say_soさんのエントリにつけたブクマコメントの通り、「逃れられない」とも書いてない。だから私はこの詩に「今」「ここで」「私が」という当事者性を見たのだし、希望のない言葉とは思わずにいる。私にとってこの言葉は今これから子供を守るための盾であって、既に傷ついた子を癒す包帯にはならないかもしれないけれど、傷ついた子だってこれ以上傷つくことのないように盾で守ることはできるよね?と思う(包帯としてはid:muffdivingさんの返歌が素晴らしいと感じています)。だからmimipannさんの感想もよくわかります。
 この言葉を既定の過去ではなく未定のこれからに用いたいと思うのは、b_say_soさんの指摘によって更に強くなりました。
 b_say_soさんの指摘は必要な視点だと思います。


・しまった
 どうもコメント欄が表示されないなー、と思ったら見出しを使わないといけないのか。あれま。とりあえず「日記モード」にして応急対処しておこう。はてなは便利だけど慣れるまでは色々ポカやりそうだなぁ。