鈍い人の憂鬱(追記あり)。

 (誤字やリンク、読みづらかったところをいくつか訂正しました)

 Say::So? - これを書いた人を責めるわけではないけれども

 なんだろう、私は例の詩をDPZのコラムで最初に読んだ時、「とてもいい」と思った。

 # 2007年09月13日 trafficker DPZ, 教育, 文化 イタリアの教科書の踊るボクサーがキュート。スペインの教科書の絵が好み。/「子ども」の詩がとてもいい。
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 ライターで遊んでた高校生を酔った警官が平手打ちした事件があった時に、高校生に注がれた目線が大変残酷なものだと感じてたし、「バカは叩かなきゃわからない」的な言動がものすごくイヤでしかたなかったから、例の詩を目にした時「そうだそうだ!」と強く頷いたし、実のところid:b_say_soさんのエントリを読んでぐらぐら揺さぶられた今でも、この言葉自体にはやっぱり惹かれるものがある。子供の頃の自分がよく「笑い者にされて」、現在の自分が「物を言うことを恐れてる」からかもしれない。このダイアリーだって実はすげービクビクしながら書いてる。ブクマコメントだってモノによってはかなり緊張して書いてたりする。勿論、「笑いものにされた」子供が全員「物を言わずにいることを覚える」わけはない。それは当たり前のことで、私の経験はあくまでも私の経験に過ぎないし、私の小心や見栄っ張りは「笑い者にされた」ことだけに由来するわけじゃない。私はそれでもなんとか大人の範疇に足を踏み入れることができたから、それを知っている。
 けどb_say_soさんの指摘の通り、傷ついた子供本人にはとてもしんどい言葉だと思う。過去は消すことができないし、環境だって子供は選べない。だから、自分が傷つけられ捻じ曲がった子供だと言われたら悲しくなるのは当然だ。その子にとって存在するのは過去と今だけだし、未来は誰にもわからない。現在から未来が急激に変わることはあまり想像できないだろう。だから、例の詩は傷つけられた子供の過去と照らし合わせて用いられたらどこまでも残酷な言葉になる。おめでたいことに私はそこをすっかり見落としていた。だからb_say_soさんのエントリにはガツンと見事な一撃をもらってとても感謝しているし、指摘されるまで思い至れなかった自分に憂鬱な気分になる。

 もともとは子供に愛情を与えましょうというつもりだったと言うことは知っている。これから親になる人に向けての言葉だと言うことは知っている。

 …とb_say_soさんはおっしゃっていて、以下はもう私が「もともと」の意味をこねくり回してるに過ぎず、b_say_soさんが言いたかったことへの反応としては大変ズレたものでこの詩への単なる感慨以外の何物でもないのだけれど、私は例の詩を読んだ時、大人が子供と接する際に自らに言い聞かせる言葉だと思った。親が自分の子供に接する時だけじゃなく、一人の大人(自分)が一人の子供に接する時のための自省の言葉だと思ったのだ。自分に子供はいないせいか、子育ての言葉だなんて全然思わなかった。学校の教科書に載っていたということで、教師が子供に接する時の心構えなんだと解釈してた。
 というか、b_say_soさんの指摘に全面的に頷いておきながらこの詩を嫌えないのは、おそらく自分の中でうまく回るような解釈で形を整えてしまったからだ。

 (今、私に)批判ばかりされた(この)子供は、(傷ついて)非難することを覚える(かもしれない)
 (今、私に)殴られた(この)子供は、(傷ついて)力にたよることを覚える(かもしれない)

 ……というように。これは他の誰かさんではなく、今現在一人の子供と向き合っている自分(当事者)にささやかれている言葉なんだと私はとらえた(白状すると私としては「〜を覚える」より「(傷ついて)」が重要で、そう考えると私はこの詩の意味を手前勝手に捻じ曲げているだけなのだろうとも思う)。そうやって接する「現在」を積み重ねて、接した子供の未来の幸せにほんの少しでも貢献するための言葉として考えた。
 だから、「育ち」という過去に原因を求める言葉としてこの詩をもっともらしく嘯く人がいたら、私自身自分勝手な解釈をしているにもかかわらず私はその人を強く軽蔑する。傷つけられた過去はどうやったって変えられないし環境で人の全てを決定付けるのは間違いだからだ。
 同時に「でも」とも思う。私が自分の中でこの詩を変えたようにその人がこの詩を好きに使うことを、咎められるのか、と自らに問うと咎めることはできない。咎めることができるのは、環境に全ての原因を求める姿勢であって、この言葉の用い方じゃないんじゃないか、って思う。自らの姿勢をこの言葉で裏打ちしてるのは自分も一緒じゃないかって。そういう「都合の良い使い方ができてしまう言葉」で、自分も都合よく使ってるってことは覚えておこうと思う。

 これからどこかで出会うかもしれない一人一人の子供といざやり取りする折、「今」「私が」主体として心の中で使うために、b_say_soさんの指摘と共に抱えておこうと思う。そう考えながら私は明確な態度を決めかねてぐるぐると回っている。


・追記

2007年09月17日 mimipann atd 一読。「だから、自分が傷つけられ捻じ曲がった子供だと言われたら悲しくなるのは当然だ」が理解できない。

 うーん……「〜された子供は」「〜を覚える」という文章の中で「〜された子供」というのを、「環境」や「育ち」という過去形現在完了形でとらえた場合、「〜を覚える」と自分の事を言い切られたら悲しいよなぁ、と思ったのです。過去や今ある環境というのは子供本人が逃れようとするにはあまりにハードルが高すぎる。殴られた事実は消えないし、笑い者にされた記憶も残るだろうし。その記憶を抱えている人間の前で、この言葉を「おまえはそういう経験があるのだからこうなのだろう」と意識的にせよ単なる無神経にせよ用いられたら傷つくよなぁそりゃ、と思うし、そうでなくても「自分ってこうなんだ」という気持ちに繋がってしまったらそれは悲しい。
 言われたことが真ではなくても言葉で傷つくことはあるし、子供ならば尚更信じ込んでショックを受けることはあり得ると思うのです。きちんと考えて突っぱねられる子ならばそれはとても強くて頼もしいと思いますけど。

 ただ、id:mimipannさんが

2007年09月16日 mimipann education 引用文には、「逃れられない」とか、子供の頃の環境で得た性質が永続するとの記述はない。悪意を読み込む読解が、にも関わらず成立するのはなぜ。↑こうも安易に他人の人間性を疑える神経も凄い。怒りが理解できない
はてなブックマーク - Say::So? - これを書いた人を責めるわけではないけれども

 と、b_say_soさんのエントリにつけたブクマコメントの通り、「逃れられない」とも書いてない。だから私はこの詩に「今」「ここで」「私が」という当事者性を見たのだし、希望のない言葉とは思わずにいる。私にとってこの言葉は今これから子供を守るための盾であって、既に傷ついた子を癒す包帯にはならないかもしれないけれど、傷ついた子だってこれ以上傷つくことのないように盾で守ることはできるよね?と思う(包帯としてはid:muffdivingさんの返歌が素晴らしいと感じています)。だからmimipannさんの感想もよくわかります。
 この言葉を既定の過去ではなく未定のこれからに用いたいと思うのは、b_say_soさんの指摘によって更に強くなりました。
 b_say_soさんの指摘は必要な視点だと思います。


・しまった
 どうもコメント欄が表示されないなー、と思ったら見出しを使わないといけないのか。あれま。とりあえず「日記モード」にして応急対処しておこう。はてなは便利だけど慣れるまでは色々ポカやりそうだなぁ。